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斎藤龍興(さいとうたつおき)

戦国大名[日本]

(天正元年8月14日没)

(ユリウス暦) 1573年 9月10日 死去戦死享年26歳

斎藤龍興 - ウィキペディアより引用

斎藤 龍興 / 一色 龍興(さいとう たつおき / いっしき たつおき)は、戦国時代の美濃国の戦国大名。
道三流斎藤家3代(美濃一色家2代)。
父・斎藤義龍の急死により若年にしてその跡を継ぐが、尾張の織田信長に美濃を奪い取られた。
その後も越前朝倉氏と協力して美濃復帰を目指したが、実現することなく討ち死にした。
美濃斎藤氏は龍興の父・義龍の代から一色氏を名乗っており、『朝倉始末記』をはじめとする越前朝倉氏に関する記録に見えるように、龍興自身やその味方は「一色」だと認識していた。
しかし龍興と敵対した織田氏では一色氏と認めない立場から「斎藤」と呼び続け、織田氏の記録である『信長公記』などにより「斎藤龍興」の名で知られている。
生涯= 家督相続= 天文16年(1547年)または17年(1548年)に、斎藤義龍と妻・浅井氏(浅井久政の娘とされるが、年齢的に浅井亮政の娘とみられる)の間に生まれる。
永禄4年(1561年)5月11日に、父・義龍が急死し14歳で美濃斎藤氏の家督を継ぐ。
同月13日、義龍重病との情報を得たのか、織田信長が木曽川を越えて西美濃に侵攻、森部で合戦となった(森部の戦い)。
この戦いで重臣の日比野清実、長井衛安らが討ち死にした。
信長自身が撤退した後も駐留軍による攻撃が続き、和議と織田方の撤退が成るのは翌年2月となった。
永禄5年(1562年)には、有力家臣であった郡上八幡城主の遠藤盛数が病没する。
美濃国攻防戦と ……

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