足利義昭(あしかがよしあき)
室町幕府第15代将軍[日本]
(慶長2年8月28日没)
1597年 10月9日 死去享年61歳
足利 義昭(あしかが よしあき)は、室町幕府の第15代(最後の)征夷大将軍(在職:1568年〈永禄11年〉- 1588年〈天正16年〉)。
父は室町幕府の第12代将軍・足利義晴。
母は近衛尚通の娘・慶寿院。
第13代将軍・足利義輝は同母兄。
概要=
足利将軍家の家督相続者以外の子息として、慣例により仏門に入って、覚慶(かくけい)と名乗り、一乗院門跡となった。
兄・義輝が永禄の変で三好三人衆らに殺害されると、細川藤孝ら幕臣の援助を受けて南都から脱出し、還俗して義秋(よしあき)と名乗る。
その後、朝倉義景の庇護を受け、義昭に改名した。
そして、織田信長に擁されて上洛し、第15代将軍に就任した。
その後、信長と対立し、武田信玄や朝倉義景、浅井長政らと呼応して信長包囲網を築き上げる。
一時は信長を追い詰めることができたが、やがて京都から追われ、一般にはこれをもって室町幕府の滅亡とされている。
しかし、義昭は京都追放後も将軍として活動を続けており、河内国や和泉国、紀伊国に滞在したのち、備後国へ下向した。
そして、毛利輝元の庇護を受け、亡命政権・鞆幕府を樹立し、信長に対抗した。
信長が本能寺の変によって横死したのち、豊臣政権が確立すると帰京し、豊臣秀吉から山城国槇島に1万石の所領を認められた。
そして、将軍を辞して出家し、昌山道休(しょうざん どうきゅう)と号した。
義昭は前将軍であったので、殿中での待遇は大大名 ……
足利義昭が亡くなってから、427年と40日が経過しました。(156002日)