明智光秀(あけちみつひで)
戦国大名[日本]
(天正10年6月13日没)
(ユリウス暦) 1582年 7月2日 死去
明智 光秀(あけち みつひで)は、戦国時代から、安土桃山時代にかけての武将、大名。
通説では美濃国の明智氏の支流の人物で、俗に美濃の明智荘の明智城の出身と言われているが、他の説もある。
このため前歴不明。
越前国の一乗谷に本拠を持つ朝倉義景を頼り、長崎称念寺の門前に十年ほど暮らし、このころに医学の知識を身に付ける。
その後、足利義昭に仕え、さらに織田信長に仕えるようになった。
元亀2年(1571年)の比叡山焼き討ちへ貢献し、坂本城の城主となる。
天正元年(1573年)の一乗谷攻略や丹波攻略にも貢献した。
天正10年(1582年)、京都の本能寺で織田信長を討ち、その息子信忠も二条新御所で自刃に追いやり(本能寺の変)、信長親子による政権に幕を引いた。
その後、自らも織田信孝・羽柴秀吉らに敗れて討ち取られたとされるが、当時光秀の首を確認したという文献資料は残されていない(山崎の戦い)。
生涯
出自・生年・出身地
『続群書類従』所収「明智系図」や『美濃国諸旧記』などでは、清和源氏の土岐氏支流[注釈 12]である明智氏に生まれたとされるが、一次史料はない。
その上、足利義昭が越前国に滞在している頃には、足利義輝期に創設された足軽衆(将軍直臣ではない者で構成された)に属していたことから、少なくとも足軽衆より格上である奉公衆に名を連ねた土岐氏流明智氏の本流出身ではないことは明らかである。
父は江戸時代の諸系図 ……