天野信景(あまのさだかげ)
国学者、尾張藩士[日本]
(享保18年9月8日没)
1733年 10月15日 死去享年71歳
天野 信景(あまの さだかげ)は、江戸時代中期の国学者、尾張藩士。
概要=
名古屋城下南大津町に生まれる。
生家の天野氏は鎌倉時代の武将天野遠景の末裔と伝えられる。
寛永元年(1624年)頃、山城国に住していた祖父孝信の代に尾張藩に仕え、次男であった父信幸は進物番・納戸を経て金奉行や町奉行を歴任し、450石となっている。
信景は父の歿後、貞享元年(1684年)に家督を継ぎ、寄合・鉄砲頭となる。
享保8年(1723年)に病のため職を辞し、同15年(1730年)には剃髪して隠棲する。
業績=
人となりは温厚にして博聞強記と伝えられる。
特定の師はいなかったとされるが、国典は伊勢神道の再興者とされる度会延佳(わたらい のぶよし)から、仏典は養林寺七世・単誉上人一如から受けた。
朱子学を基底に置き和漢の学を究め、さらに広く仏教・博物・天文・地理・風俗などにも通じ、著書は全千巻ともいわれる一大随筆集の『塩尻』(元禄10年(1697年)頃の起筆。
歿年まで書き継がれた)をはじめ国史・地誌・文学など多岐に亘り、『国書総目録』に収載されている書目だけで145に及ぶ。
元禄11年(1698年)に藩主・綱誠の命によって『尾張風土記』の編纂事業が始まると、吉見幸和や真野時綱らとその任に当たった。
この編纂作業は翌年の綱誠の死により中断(信景死後の宝暦2年(1752年)に『張州府志』として完成)されたが、この経験から実証学的な手法を身に付けたとされる。
そ ……
天野信景が亡くなってから、290年と357日が経過しました。(106280日)