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徳川宗堯(とくがわむねたか)

常陸水戸藩主[日本]

(享保15年4月7日没)

1730年 5月23日 死去享年26歳

徳川 宗堯(とくがわ むねたか、旧字体德川 宗堯)は、江戸時代中期の大名。
常陸水戸藩4代藩主。
官位は従三位・左近衛権中将、参議。
生涯[編集] 宝永2年(1705年)7月11日、高松藩主・松平頼豊の嫡男として誕生。
母は湯浅方淑の娘・喜智(西御部屋)。
幼名は軽麻呂。
正徳元年(1711年)11月、大伯父である水戸藩主・徳川綱條の養嗣子となり、鶴千代と改める。
享保元年(1716年)、将軍・徳川吉宗から偏諱を賜り宗堯と名乗る。
少年時代から英邁で知られており、享保3年(1718年)に綱條が亡くなると家督を継いだ。
自ら朝夕の食事を一汁三菜とし、倹約に努めて行き詰まっていた藩政を立て直そうとしたが、享保15年(1730年)4月7日に死去した。
享年26(満24歳没)。
綱條の嫡子徳川吉孚の一人娘美代姫を御簾中とし、美代姫との間にもうけた次男宗翰が家督を継いだ。
有能で文化人としても優れていたため、徳川光圀の再来と讃えられた。
著書に「成公文集」がある。
逸話[編集] 「水戸紀年」には、宗堯が死去する際、附家老の中山信昌が来て、鶴千代(宗翰)を御簾中・美代姫に抱き取らせ、「自分が再び来るまでは、何も食べさせてはならず、誰の手にも渡してはならない」と話したという逸話が載っている。
風聞によれば、高松藩より養子入りした宗堯は、生母喜智を讃岐国から呼び寄せ、小石川邸内に新御殿を建てて住まわせた。
この新御殿に仕える元・高松藩士岡 ……

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徳川宗堯が亡くなってから、294年と63日が経過しました。(107447日)