徳川光圀(とくがわみつくに)
水戸藩主[日本]
(元禄13年12月6日没)
1701年 1月14日 死去享年74歳
徳川 光圀(とくがわ みつくに、寛永5年6月10日〈1628年7月11日〉 - 元禄13年12月6日〈1701年1月14日〉)は、江戸時代前期の大名。
常陸水戸藩の第2代藩主。
後世の創作における脚色を含めて「水戸黄門」としても知られる。
諡号は「義公」、字は「子龍」、号は「梅里」。
また神号は「高譲味道根之命」(たかゆずるうましみちねのみこと)。
水戸藩初代藩主・徳川頼房の三男。
江戸幕府初代将軍・徳川家康の孫に当たる。
儒学を奨励し、彰考館を設けて『大日本史』を編纂し、水戸学の基礎をつくった。
概要=
藩主時代には寺社改革や殉死の禁止、「快風丸」建造による蝦夷地(後の北海道石狩国)の探検などを行った。
また、後に『大日本史』と呼ばれる修史事業に着手し、古典研究や文化財の保存活動など数々の文化事業に力を注いだ。
さらに、徳川御三家の長老として、徳川綱吉期には幕政にも影響力を持った。
同時代から言行録や伝記を通じて名君伝説が確立しているが、特に江戸時代後期から近代にかけて、白髭と頭巾姿で諸国を行脚してお上の横暴から民百姓の味方をする、フィクションとしての黄門漫遊譚が形成された。
水戸黄門は講談や歌舞伎の題材として大衆的人気を獲得し、昭和時代には映画やテレビドラマなどの題材とされた(「水戸黄門」参照)。
『大日本史』の編纂に必要な資料収集のために家臣を諸国に派遣したことや、隠居後に水戸藩領内を巡視した話などから ……
徳川光圀が亡くなってから、323年と237日が経過しました。(118213日)