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柳沢吉保(やなぎさわよしやす)

川越藩・甲府藩 藩主、幕府側用人[日本]

(正徳4年11月2日没)

1714年 12月8日 死去享年57歳

柳沢吉保 - ウィキペディアより引用

柳沢 吉保(やなぎさわ よしやす、正字体:柳澤吉保、正仮名遣:やなぎさはよしやす)は、江戸時代前期の幕府側用人・譜代大名。
第5代将軍徳川綱吉の寵愛を受けて、元禄時代には大老格として幕政を主導した。
王朝文化への憧憬を強く抱いた文化人でもあり、江戸に六義園を造営した。
生涯 出生から館林藩士時代 柳沢氏は清和源氏の流れを引く河内源氏の支流、甲斐源氏武田氏一門である甲斐一条氏の末裔を称し、甲斐国北西部の在郷武士団である武川衆に属した。
武田氏の滅亡後、武田遺臣の多くが徳川家康の家臣団に組み込まれ、柳沢氏は吉保の祖父にあたる信俊が家康に仕官した。
柳沢氏は土屋氏と並んで、武田遺臣から近世大名化した一族として知られる。
万治元年(1658年)12月18日、吉保は上野国館林藩士・柳沢安忠の長男として江戸市ヶ谷に生まれる。
母は安忠の側室である佐瀬氏(了本院)。
了本院は安忠の所領がある上総国一袋村の出身で、安忠正室・青木氏の侍女となる。
了本院は吉保出産後に実家へ戻ったため、吉保は安忠正室・青木氏のもとで養育されたが、後に吉保は幕臣になってから了本院の存在を知ると江戸に呼び寄せた。
吉保は長男ではあったが、父の晩年の庶子であり、柳沢家の家督は吉保の姉婿となっていた従兄の信花(父・安忠の甥)が養嗣子となって継いだ。
寛文4年(1664年)12月18日、館林藩主・徳川綱吉に初めて謁見する。
寛文12年(1672年)に ……

柳沢吉保が亡くなってから、309年と347日が経過しました。(113209日)

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