会沢正志斎(あいざわせいしさい)
儒学者[日本]
(文久3年7月14日没)
1863年 8月27日 死去享年82歳
会沢 正志斎(あいざわ せいしさい、天明2年5月25日(1782年7月5日) - 文久3年7月14日(1863年8月27日))は、江戸時代後期から末期(幕末)の水戸藩士、水戸学藤田派の学者・思想家。
名は安(やすし)。
字は伯民。
通称は恒蔵。
号は正志斎、欣賞斎、憩斎。
生涯=
天明2年(1782年)、水戸藩士・会沢恭敬の長男として、水戸城下の下谷で生まれる。
母は根本重政の娘。
幼名は市五郎、または安吉。
会沢家は代々久慈郡諸沢村(常陸大宮市諸沢)の農家で、初代藩主・徳川頼房のとき餌差(鷹匠の配下、鷹の餌である小鳥を捕まえる職)となり、祖父の代に郡方勤めとなり、父・恭敬の代に士分となった。
寛政3年(1791年)、10歳にて藤田幽谷の私塾(のちの青藍舎)へ入門し、「沈深にして卓識あり」と評された。
師となった幽谷は正志斎の8歳年上でいまだ18歳ではあるが、すでにその突出した学識で士分に取り立てられて名声があり、観念的な学問より実社会に役立つ実学を奨励した。
後に正志斎は幽谷の教育内容を『及門遺範』にまとめている。
寛政11年(1799年)、『大日本史』の修史局の彰考館に入り、書写生となる。
また、ロシアのアダム・ラクスマンが根室に来航すると、幽谷はロシアの南下政策に関心を寄せ、正志斎もロシアの国情、国際関係を入手できる書物からまとめて、享和元年(1801年)に『千島異聞』を著す。
享和3年(1803年)、格式留守列となり、江戸彰考館勤務とな ……
会沢正志斎が亡くなってから、161年と86日が経過しました。(58891日)