菅江真澄(すがえますみ)
旅行家、民俗学者[日本]
(文政12年7月19日没)
1829年 8月18日 死去享年76歳
菅江 真澄(すがえ ますみ、宝暦4年〈1754年〉 - 文政12年7月19日〈1829年8月18日〉)は、江戸時代後期の旅行家、本草学者。
本名は白井秀雄(幼名は英二)、知之・秀超などとも名乗った。
文化年間半ば頃から菅江真澄(真栖・真隅とも)を名乗った。
墓碑銘(下記参照)から宝暦3年生年説もある。
生涯・人物=
象潟地震で隆起する以前の、象潟の様子が描かれた屏風。
真澄は隆起する以前の象潟を訪れている。
父は白井秀真(秀順)。
三河国生まれ。
出身地は現在の岡崎説(柳田國男)と豊橋説(白井梅里)の両説あり。
少年期に岡崎城下成就院の稚児となり、三河吉田藩の植田義方(賀茂真淵門人)に国学を学んで学問に目覚め、和文や地誌の修行を積む。
その後、尾張国に遊学して、河村秀根・丹羽嘉言を師として、国学・本草学・写生などを学んだ。
天明3年(1783年)郷里を旅立ち、信濃・越後を経て出羽・陸奥・蝦夷地など日本の北辺を旅した。
信濃では『伊那の中路』を初めとする紀行や随筆、陸奥・出羽では『霞む駒形』『率土が浜つはひ』『秋田の仮寝』『小野のふるさと』といった紀行や素描本を綴り、蝦夷地ではアイヌの人々の生活を『えぞのてぶり』に写した。
蝦夷地から下北半島を漫遊、寛政7年(1795年)より7年間、弘前藩で採薬御用などを勤めたが行動不審を問われ日記や紀行を押収され軟禁に処された。
享和元年(1801年)に久保田藩(秋田)に移り、那珂通博 ……
菅江真澄が亡くなってから、195年と94日が経過しました。(71318日)