鷹見泉石(たかみせんせき)
下総古河藩士、家老[日本]
(安政5年7月16日没)
1858年 8月24日 死去享年74歳
鷹見 泉石(たかみ せんせき、1785年8月3日〈天明5年6月29日〉 - 1858年8月24日〈安政5年7月16日〉)は、江戸時代の蘭学者であり、下総国古河藩の家老である。
諱を忠常、通称を又蔵、十郎左衛門。
字を伯直(はくちょく)。
号は泉石の他に楓所(ふうしょ)、泰西堂(たいせいどう)、可琴軒(かきんけん)。
また、ヤン・ヘンドリック・ダップル(Jan Hendrik Daper)という蘭名も署名に用いている。
来歴=
天明5年(1785年)、古河藩の御使番役・鷹見忠徳(250石)の嫡男として古河城下に誕生する。
寛政9年(1797年)、調役給仕として出仕して以降、目付、用人上席、番頭格などを経て、天保2年(1831年)に280石の家老(役高500石)へ昇進した。
譜代大名の土井家(宗家)は代々幕府の要職を歴任しており、土井利厚・利位父子もまた寺社奉行や大坂城代、京都所司代、老中などの要職を務めていた。
泉石は藩主に近侍して全国各地へ同行し、これら職務の補佐に務めた。
利位が大坂城代であったときに起こった大塩平八郎の乱においては鎮圧にあたっている。
「土井の鷹見か、鷹見の土井か」と言われるほどに、その能力は賞賛を受けた。
弘化2年(1845年)に加増されて330石となるが、翌弘化3年(1846年)に免職となって古河に隠居している。
安政5年(1858年)、古河長谷町の隠居屋敷(現:古河歴史博物館の鷹見泉石記念館)にて死没。
享年74。
墓地は茨城県古河市の正麟寺。
対外危機意 ……
鷹見泉石が亡くなってから、166年と78日が経過しました。(60710日)