渡辺崋山(わたなべかざん)
三河田原藩士・家老、画家[日本]
(天保12年10月11日没)
1841年 11月23日 死去自刃享年49歳
渡辺 崋山(わたなべ かざん)は、江戸時代後期の武士・画家。
三河国田原藩士・家老。
通称は登(のぼり)、諱は定静(さだやす)。
号の崋山ははじめ華山で、35歳ころ改めた。
別号は全楽堂・寓画堂など。
贈正四位。
1839年に幕府によって罰せられた(蛮社の獄)。
生涯=
誕生と苦難の幼少時代=
池ノ原公園崋山幽居跡
江戸詰(定府)の田原藩士である父・渡辺定通と母・栄の長男として、江戸・麹町(現・東京都千代田区の三宅坂付近)の田原藩邸で生まれた。
渡辺家は田原藩で上士の家格を持ち、代々100石の禄を与えられていたが、父定通が養子であることから15人扶持(石に直すと田原藩では27石)に削られ、さらに折からの藩の財政難による減俸で実収入はわずか12石足らずであった。
さらに父定通が病気がちで医薬に多くの費用がかかったため、幼少期は極端な貧窮の中に育った。
日々の食事にも事欠き、弟や妹は次々に奉公に出されていった。
この有様は、崋山が壮年期に書いた『退役願書之稿』に詳しい。
この悲劇が、後の勉学に励む姿と合わせて太平洋戦争以前の修身の教科書に掲載され、忠孝道徳の範とされた。
こうした中、まだ少年の崋山は生計を助けるために得意であった絵を売って、生計を支えるようになる。
後に谷文晁に入門し、絵の才能が大きく花開き、20代半ばには画家として著名となったことから、ようやく生活に苦労せずに済むようになることが出来た ……
渡辺崋山が亡くなってから、182年と362日が経過しました。(66838日)