冷泉為恭(れいぜいためちか)
絵師[日本]
(元治元年5月5日没)
1864年 6月8日 死去暗殺享年42歳
冷泉 為恭(れいぜい ためちか、1823年10月20日〈文政6年9月17日〉- 1864年6月8日〈元治元年5月5日〉)は、幕末期に活躍した公家召抱えの復古大和絵の絵師。
幼名は晋三。
出家後は心蓮(しんれん)。
初名は狩野 永恭(かのう えいきょう)、のち冷泉為恭に改める(「冷泉」の姓は自らが冷泉家に無断で名乗ったもので、公家の出自ではない)。
また蔵人所衆である岡田氏に養子入りしたため、岡田 為恭(おかだ ためちか)とも言われ、絵にしばしば岡田氏の本姓である菅原姓で署名している。
為恭の読みは、岡田氏に養子入りする前は「ためたか」、養子後は「ためちか」と名乗ったというのが通説である。
最高級の絵の具を惜しげも無く用いた濃彩画を得意としたが、障壁画や白描画、仏画にも当時としては傑作といわれるほどの名画を残している。
江戸幕府側とも交流があったため、尊王攘夷派から敵視され、数え年42歳にして殺害された。
略歴=
狩野派から大和絵へ=
京狩野の絵師狩野永泰と、俳人北川梅價の娘織乃の第三子として生まれる。
京狩野9代目の狩野永岳は父永泰の実兄で、為恭の伯父にあたる。
父方の祖父も景山洞玉(狩野永章)という絵師であり、三代にわたる京狩野の家系である。
両親は初め為恭が絵師になるのを好まず、狂言師にするつもりだったが、為恭は絵師、それも京狩野ではなく大和絵復興を志す。
特定の絵師に師事せず、高山寺、神護寺、聖護院などの社寺 ……
冷泉為恭が亡くなってから、160年と165日が経過しました。(58605日)