蔵原惟人 氏(くらはらこれひと)
文芸評論家[日本]
(ペンネーム・古川荘一郎)
1991年 1月25日 死去腸閉塞享年90歳
蔵原 惟人(くらはら これひと、1902年〈明治35年〉1月26日 - 1991年〈平成3年〉1月25日)は、日本の評論家。
ペンネームは古川 荘一郎。
ロシア文学やプロレタリア文学を対象に活動した。
経歴・人物=
1955年
東京府東京市麻布区三軒屋町出身。
父蔵原惟郭(これひろ)は熊本県の阿蘇神社の社家に生まれた代議士・教育家で、反骨の士として知られた。
母しうは北里柴三郎の妹。
惟人はその次男。
府立一中から東京外国語学校に進学し、ロシア語を学ぶ。
卒業後、1925年2月25日『都新聞』特派員の名目でロシアに留学。
このとき、モスクワで映画『戦艦ポチョムキン』を観た。
帰国後、『キネマ旬報』誌に寄稿し、当時日本では輸入が許可されなかった同作品を紹介した。
1926年11月に帰国。
同年、プロレタリア芸術連盟に加入する。
1927年のプロレタリア文学運動の分裂のときには、前衛芸術家同盟に所属した。
1928年には、日本左翼文芸家総連合の結成に尽力したが、弾圧の結果、大きな活動はできずに自然消滅の形になってしまった。
その直後、全日本無産者芸術連盟(ナップ)の結成に働き、雑誌『戦旗』を発行し、小林多喜二や徳永直らの作品を掲載し、新しい書き手の成長を促した。
また、この年、論文「プロレタリア・レアリズムへの道」を発表し、プロレタリア文学の理論化に貢献した。
1929年、田中清玄の推薦で日本共産党入党。
1930年には、非公然にソ連に渡航し、 ……
蔵原惟人さんが亡くなってから、33年と301日が経ちました。(12354日)