芸能人・経営者のおくやみ情報

蔵原惟繕 氏(くらはらこれよし)

映画監督[日本]

2002年 12月28日 死去肺炎享年76歳

蔵原惟繕 - ウィキペディアより引用

蔵原 惟繕(くらはら これよし、1927年5月31日 - 2002年12月28日)は、日本の映画監督。
文芸評論家・蔵原惟人はいとこおじ、映画監督・蔵原惟二は実弟にあたる。
経歴= 父親は鈴木商店の傍系会社・日沙商会の農業技師で、ボルネオ島のサラワク王国クチン市(現・マレーシアのサラワク州クチン)のゴム園で働いているとき、当地で出生。
小学時に日本に戻り東京の田園調布小学校に入学。
小学4年のとき、兵庫県神戸市に移り、御影第三小学校に転校。
関西学院中等部終了後、海軍特別幹部練習生となる。
入隊して広島県賀茂郡郷原村(現呉市郷原)で陸戦訓練中に広島原爆を目撃。
戦後復員し、家族の疎開先、徳島県海部郡川上村で農作業をした後、日本大学三島予科に入学、のち日本大学芸術学部映画科に進んだ。
大学在学中に本多猪四郎の紹介で、山本嘉次郎の家に書生として住み込む。
1952年、大学卒業と同時に松竹京都撮影所に入社し、助監督を務める。
1954年日活の製作再開で同社に移り、滝沢英輔、中平康、鈴木清順らの助監督を務める。
1957年、石原裕次郎主演の『俺は待ってるぜ』で監督デビュー。
大胆なカメラアングルとカメラワークで注目を浴びる。
以後、石原裕次郎、浅丘ルリ子の主演作を数多く撮る。
浅丘とは愛人関係にあった。
また河野典生の短編「狂熱のデュエット」を映画化した1960年の作品『狂熱の季節』、「腐ったオリーブ」を映画化した1964年の作品 ……

蔵原惟繕さんが亡くなってから、21年と329日が経ちました。(7999日)

推定関連画像