結城朝光(ゆうきともみつ)
武将[日本]
(建長6年2月24日没)
(ユリウス暦) 1254年 3月14日 死去享年87歳
結城 朝光(ゆうき ともみつ)は、平安時代末期から鎌倉時代中期にかけての武将・有力御家人。
下総結城氏初代当主。
書物によっては小山 朝光(おやま ともみつ)と記されている場合もあるが、結城家の家祖であるため、後の名乗りである結城朝光の方が、世上よく知られた名前である。
生涯=
結城朝光の墓(称名寺)
仁安3年(1168年)、鎮守府将軍・藤原秀郷を祖とする下野国小山の豪族・小山政光の三男として誕生。
母は源頼朝の乳母である八田宗綱の娘・寒河尼。
治承4年(1180年)10月2日、平氏打倒に挙兵した頼朝に母・寒河尼の引き合わせで臣従し、頼朝が烏帽子親となって元服する。
養和元年(1181年)4月、朝光は頼朝の寝所を警護する11名の内に選ばれた(『吾妻鏡』養和元年4月7日条)。
寿永2年(1183年)2月23日、鎌倉への侵攻を図った志田義広と足利忠綱の連合軍を、八田知家と父・政光、兄・朝政、長沼宗政らが野木宮合戦で破った。
義広との戦いに先んじて頼朝が鶴岡八幡宮で戦勝を祈願すると、御剣役を務めていた朝光は義広が敗北するという「神託」を告げ、頼朝から称賛された。
なお朝光の御剣役の回数は『吾妻鏡』において10回を数え、御家人の中で最多である。
論功行賞で朝光は結城郡の地頭職に任命された。
元暦元年(1184年)、木曾義仲を追討するため源範頼・義経軍に参加、宇治川の戦いで木曽軍を討滅した後、平氏追討軍に参加、元暦2年(1185年)3月の壇ノ ……