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北条泰時(ほうじょうやすとき)

武将、鎌倉幕府第3代執権[日本]

(仁治3年6月15日没)

(ユリウス暦) 1242年 7月14日 死去享年60歳

北条泰時 - ウィキペディアより引用

北条 泰時(ほうじょう やすとき)は、鎌倉時代前期の武将。
鎌倉幕府第2代執権・北条義時の長男で、鎌倉幕府第3代執権(在職:貞応3年(1224年) - 仁治3年6月15日(1242年7月14日))。
御成敗式目を制定した人物である。
生涯= 出生から承久の乱まで= 寿永2年(1183年)、北条義時の長男として生まれる。
幼名は金剛。
『吾妻鏡』は同年の記事が欠落しており、泰時の誕生記事はない。
生母についても『吾妻鏡』には何も記されておらず、『鎌倉年代記』『武家年代記』『系図纂要』に御所の女房の阿波局と記されているのみで出自は不明。
おそらくは妾(側室)で泰時は庶長子だったと思われる。
父の義時は21歳、祖父の時政ら北条一族と共に源頼朝の挙兵に従い鎌倉入りして3年目の頃である。
泰時が10歳の頃、御家人多賀重行が泰時と擦れ違った際、重行が下馬の礼を取らなかったことを頼朝に咎められた。
頼朝の外戚であり、幕政中枢で高い地位を持っていた北条は、他の御家人とは序列で雲泥の差があると頼朝は主張し、重行の行動は極めて礼を失したものであると糾弾した。
頼朝の譴責に対して重行は、自分は非礼とみなされるような行動はしていない、泰時に問い質すよう頼朝に促した。
そこで泰時に事の経緯を問うと、重行は全く非礼を働いていないし、自分も非礼だと思ってはいないと語った。
しかし頼朝は、重行は言い逃れのために嘘をつき、泰時は重行が罰せられないよう ……

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