頼山陽(らいさんよう)
歴史家、思想家、漢詩人[日本]
(天保3年9月23日生)
1832年 10月16日 死去享年53歳
頼 山陽(らい さんよう、安永9年12月27日(1781年1月21日) - 天保3年9月23日(1832年10月16日))は、江戸時代後期の歴史家・思想家・漢詩人・文人。
大坂生まれ広島育ち。
幼名は久太郎(ひさたろう)、名は襄(のぼる)、字は子成。
山陽、三十六峯外史と号した。
主著『日本外史』は、幕末から明治にかけて広く読まれ、尊王倒幕の志士にも影響を与えた。
戦後は顧みられなくなったが、作家の中村真一郎らが再評価を行った。
生涯=
父の頼春水は若くして詩文や書に秀で、大坂へ遊学し尾藤二洲や古賀精里らとともに朱子学の研究を進め、江戸堀北(現大阪市西区江戸堀の金光教玉水教会付近)に私塾「青山社」を開いた。
青山社の近隣には篠崎三島・篠崎小竹・後藤松陰・並河寒泉ら多くの文人や学者が居住していた。
山陽はこのころの安永9年12月27日(グレゴリオ暦1781年1月21日)、同地で誕生。
母は飯岡義斎の長女で歌人の頼梅颸、その妹は尾藤二洲に嫁いでいる。
天明元年(1781年)12月、父が広島藩の学問所創設にあたり儒学者に登用されたため転居し、城下の袋町(現広島市中区袋町)で育った。
父と同じく幼少時より詩文の才があり、また歴史に深い興味を示した。
天明8年(1788年)、広島藩学問所(現・修道中学校・修道高等学校)に入学。
その後春水が江戸在勤となったため、学問所教官を務めていた叔父の頼杏坪に学び、寛政9年(1797年)には江戸に遊学し、父の学友尾藤二 ……
頼山陽が亡くなってから、192年と35日が経過しました。(70163日)