貫名海屋(ぬきなかいおく)
儒学者、書家、文人画家[日本]
(文久3年5月6日没)
1863年 6月21日 死去享年86歳
貫名 菘翁(ぬきな すうおう、安永7年3月(1778年) - 文久3年5月6日(1863年6月21日))は江戸時代後期の儒学者・書家・文人画家。
江戸後期の文人画家の巨匠で、とりわけ書は幕末の三筆として称揚される。
姓は吉井、後に家祖の旧姓貫名に復する。
名は直知・直友・苞(しげる)。
字は君茂(くんも)・子善。
通称は政三郎、のちに省吾さらに泰次郎と改める。
号は海仙・林屋・海客・海屋・海屋生・海叟・摘菘人・摘菘翁・菘翁・鴨干漁夫など多数。
室号に勝春園・方竹園・須静堂・須静書堂・三緘堂。
笑青園などと名のっている。
海屋・菘翁が一般に知られている。
生涯=
徳島藩士で小笠原流礼式家の吉井直好の二男として徳島城下御弓庁(現・弓町)に生まれる。
母は藩の御用絵師矢野常博の娘である。
86歳で死去、京都東山高台寺に葬られる。
学問=
幼少の頃は弓町の儒医を業とした木村蘭皐に、後に13~14歳の頃は阿波国那賀郡黒津地村の光明寺に寓居して高橋赤水に就いて儒学を学んだ。
17歳の頃、母方の叔父・矢野霊瑞を頼って高野山に登り学問に励み、山内の図書を貪り読んだと伝えられる。
その後22歳で、大坂の懐徳堂に入門し、中井竹山の下で経学や史学を学び、やがて塾頭となった。
文化8年(1811年)頃、京都に移ると私塾・須静堂を開き朱子学を中心に教えた。
菘翁は晩年になるにつれて書家としての名声が高まったが、「自分は儒家を以って自ら居るので ……
貫名海屋が亡くなってから、161年と153日が経過しました。(58958日)