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浦上春琴(うらがみしゅんきん)

文人画家[日本]

(弘化3年5月23日没)

1846年 6月16日 死去享年68歳

浦上春琴 - ウィキペディアより引用

浦上 春琴(うらかみ しゅんきん、安永8年(1779年)5月 - 弘化3年5月2日(1846年5月26日))は、江戸時代後期の日本の文人画家。
当時、鴨方藩士だった浦上玉堂の長子として備前国岡山(現岡山県岡山市)に生まれる。
浦上秋琴は実弟。
諱は選、字を伯挙・十千、号は春琴のほかに睡菴・文鏡亭・二卿。
通称は紀一郎もしくは喜一郎。
略伝= 模施溥倣董北苑筆意山水図 絹本墨画 戦国大名浦上氏の末裔という。
幼少の頃より父・玉堂より書画の手ほどきを受ける。
寛政4年(1792年)ころより如意道人によって玉堂とともに春琴の作品が買い上げられている(「如意道人蒐集書画帖」)。
14歳のころ母が死去。
寛政6年(1794年)、玉堂が脱藩し、父子で諸国を歴遊する。
同年4月8日、15歳のときに皆川淇園の門人となり、父玉堂も同年5月6日、淇園の受業生となる。
文化3年(1806年)6月12日、熊本から東上の途中、父の玉堂および弟の秋琴と一緒に広島の頼家を訪れた折、頼山陽と邂逅する。
その後、崎陽で来舶清人と交流して舶載の古画を臨写し、長崎遊学(文化6年(1809年)~文化8年(1811年))より平安(=京都)へ戻ると、上加茂の祠官藤木大隅守数顕の娘滝(24歳)と結婚し、文化10年(1813年)より玉堂と同居(柳馬場二条北)し、夫婦で世話をする旁ら、本格的な画業に専念するようになる。
以後は平安に定住して山陽グループの活動を支え、頼山陽や田能村竹田、岡田米山人、岡田半江 ……

浦上春琴が亡くなってから、178年と133日が経過しました。(65148日)

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