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皆川淇園(みながわきえん)

儒学者[日本]

(文化4年5月16日没)

1807年 6月21日 死去享年73歳

皆川淇園 - ウィキペディアより引用

皆川 淇園(みながわ きえん、享保19年12月8日(1734年1月1日) - 文化4年5月16日(1807年6月21日))は、江戸時代中期の儒学者。
父は皆川成慶(春洞、白洲)で、実弟に国学者富士谷成章(層城、北辺)、甥に国学者富士谷御杖がいる。
淇園は号で、名は愿(げん)、字は伯恭(はくきょう)、通称は文蔵(ぶんぞう)、別号に有斐斎(ゆうひさい)がある。
生まれは京都。
生涯= 皆川淇園書 皆川春洞の第二子、長男として京都正親町坊(中立売室町西)に生まれる。
9人兄弟であった。
4、5歳頃には杜甫の詩を覚えていたといわれる。
伊藤錦里や三宅元献などに儒学を学んだ。
易学について研究を深め、独自の言語論により「名」と「物」との関係を解釈する開物論を唱え、「老子」「荘子」「列子」「論語」など多くの経書に対する注釈書を著した。
亀山藩(松平信岑)・平戸藩(松浦清)・膳所藩(本多康完)などの藩主に賓師として招かれた。
宝暦9年(1759年)より京都・中立売室町西にて門人を受け入れ始めた。
また、江村綬の錫杖堂詩社に影響され、柴野栗山や赤松滄洲らと三白社という詩社を起こす。
絵画の腕も卓越しており、山水画では、師の円山応挙に劣らずという評価も受けている。
晩年の文化2年(1805年)には様々な藩主の援助を受けて京都に学問所「弘道館」を開いた。
志半ばにして、翌年、74歳で没する。
門人は3,000人に及んだといわれる。
門弟として富士谷 ……

皆川淇園が亡くなってから、217年と153日が経過しました。(79412日)

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