渡辺南岳(わたなべなんがく)
絵師[日本]
(応門十哲、文化10年1月4日没)
1813年 2月4日 死去享年48歳
渡辺 南岳(わたなべ なんがく、明和4年(1767年)- 文化10年1月4日(1813年2月4日))は江戸時代後期の画家。
京都の人。
名は巌、字は維石、号は南岳、通称小左衛門。
円山応挙の高弟で応門十哲に数えられる。
江戸に円山派を広めた。
略伝=
修行時代=
画をはじめ源琦に師事し、ついで円山応挙に学ぶ。
入門時期は不明だが、30代に入って年期を記した作品では既に円山派の技法を完全に身に付けている事から、20代には弟子入りしていることが推定される。
二十代後半になって俳諧を中心とした版本の挿図(挿絵)を手がけている。
このころ、三河吉田の恩田石峰が門人となっている。
江戸での南岳=
三十代前半の3年間、江戸に遊歴。
俳諧師の鈴木道彦と親交があり、『むまの上』(享和2年刊・1802年)の挿図を画いた。
江戸において開催された書画展覧会(「秋芳園新書画会」文化元年)などに参加。
谷文晁・亀田鵬斎・酒井抱一・鈴木芙蓉・釧雲泉・浦上春琴・鍬形蕙斎・雲室・横田汝圭・長町竹石・広瀬台山・夏目成美・亀井東渓など当代一流の文人と交流した。
文晁の娘婿文一や大西椿年、鈴木南嶺が入門。
渡辺崋山も南岳画の模写を熱心に行っている。
このように南岳は江戸において「京派」・「京伝」と称され、文晁派を中心に円山派の画法を広めた。
京都に戻る時には300両を蓄えたといわれ、江戸で南岳の画風は持て囃されたようだ。
帰京後=
京都に戻ると四条柳 ……
渡辺南岳が亡くなってから、211年と289日が経過しました。(77357日)