円山応震(まるやまおうしん)
絵師[日本]
(天保9年8月3日没)
1838年 9月21日 死去享年49歳
円山 応震(まるやま おうしん、寛政2年3月1日(1790年4月14日) - 天保9年8月3日(1838年9月21日)あるいは天保11年(1840年))は、江戸時代後期に活躍した絵師。
円山応挙に始まる円山派の3代目。
幼名は、辰三郎または辰五郎、通称は主馬之助、主水。
字は中(仲)恭、別号に百里、星聚館、方壷子など。
略伝=
円山応挙の次男・木下応受の子として生まれるが、後に伯父の円山応瑞の養子となる。
姉小路室町東入に住んだ。
祇園祭郭巨山見送「唐山水仙人図綴織」(文化13年(1816年))や、月鉾水引「双鸞霊獣図刺繍」(天保6年(1835年)の下絵を書いたと言われる。
画域は広く、人物、山水、花鳥を得意としたというが反面、粉本主義の弊害が指摘されている。
墓所は応挙や応瑞と同じ悟真寺。
応震には子がなく、円山応立を養子として4代目とした。
弟子に、応震の妹の子・国井応文など。
作品=
作品名
技法
形状・員数
寸法(縦x横cm)
所有者
年代
款記・印章
備考
琵琶湖図
絹本著色
1幅
滋賀県立琵琶湖文化館
1824年(文政7年)
落款「甲申仲春寫 応震」/「應震之印」白文方印
朝鮮人街道に入る手前、石場辺りを通行する朝鮮通信使一行を描く。
通信使が最後に江戸へ向かったのは明和元年(1764年)で、先行する図様を写したものだと推測される。
駱駝図
絹本著食
1幅
125.5x54.6
心遠館
1824年(文政7年)
款記「文政七年甲申暮秋 應震真寫」/「應震」白文方印
秋 ……
円山応震が亡くなってから、186年と60日が経過しました。(67997日)