川端玉章(かわばたぎょくしょう)
日本画家[日本]
1913年 2月14日 死去享年72歳
川端 玉章(かわばた ぎょくしょう、天保13年3月8日(1842年4月18日) - 大正2年(1913年)2月14日)は、明治時代に活躍した日本画家。
本名は滝之助。
東京美術学校の教授を務め、川端画学校を開設するなど後進の育成に努め、美術学校の同僚だった橋本雅邦と並び評された。
経歴=
『四時ノ名勝』1899年(三の丸尚蔵館)
『丹頂鶴と青竹図』(長府毛利邸)
京都高倉二条瓦町で、蒔絵師左兵衛の子として生まれる。
父は三井家に出入りしていたため、同家へ丁稚奉公に出る。
11歳の時、三井高喜(出水家)や三井高弘(南家)らに絵の巧さを認められ、高喜の紹介で中島来章に入門。
一方で、画論を小田海僊に学ぶ。
文久三年(1863年)の虎の写生
1867年(慶応3年)江戸に移住。
1872年(明治5年)高橋由一に油絵を学ぶ。
同年三井家の依頼で、三囲神社に「狐の嫁入り」扁額を描く。
この絵は現存しないが、これが玉章の出世作となる。
しかし、その頃は生活が苦しく、錦絵(版下絵)や眼鏡絵、新聞の付録画まで描いたという。
1877年(明治10年)第一回内国勧業博覧会で褒状。
1878年(明治11年)に画塾天真堂を創設、1879年(明治12年)龍池会設立に関与。
1882年(明治15年)第一回内国絵画共進会、1884年(明治17年)第二回で共に銅賞を受け頭角を現していく。
1890年(明治23年)岡倉覚三(天心)によって東京美術学校に円山派の教師として迎えられ、1912年(大正元年)まで22年間主に写生を受け ……
川端玉章が亡くなってから、111年と280日が経過しました。(40823日)