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尾竹竹坡(おたけちくは)

浮世絵師日本画家[日本]

1936年 6月2日 死去気管支喘息享年59歳

尾竹竹坡 - ウィキペディアより引用

尾竹 竹坡(OTAKE Chikuha、おたけ ちくは、明治11年(1878年)1月11日 - 昭和11年(1936年)6月2日)、は、明治から昭和期の浮世絵師、日本画家。
いわゆる尾竹三兄弟の一人で、尾竹越堂は兄、尾竹国観は弟。
経歴[編集] 明治11年(1878年)1月12日、現在の新潟市に生まれる。
本名は染吉。
父は尾竹倉松。
4歳で南宗派の笹田雲石に学び、竹坡の雅号を受ける。
竹翁とも号す。
5歳の時には襖絵などを描き、6歳の頃には花鳥画を器用な筆捌で描き上げ、神童と言われたという。
また10歳の頃から絵をもって家計を助けたともいわれる。
明治24年(1891年)富山に移り、兄・国一(越堂)とともに生活のために売薬版画の下絵や新聞『富山日報』挿絵を描く。
主に役者絵や福絵を手がける。
弟・国観が『小国民』の全国児童画の一等賞を得たことを縁に、富山から同誌に挿絵を送るようになる。
明治29年(1896年)2月に国観とともに上京して川端玉章に入門。
日本絵画協会・日本美術院連合絵画共進会等で受賞を重ね、人気が高まる。
当時、横山大観ら東京美術学校出身作家の作品の売価が100円から200円だった時代に500円の高値で売れ、これに気を良くした二人は腕力に任せて暴走する傾向も見られた。
また小堀鞆音、梶田半古に師事して大和絵を学んだともいわれる。
明治37年(1904年)に国画会で戦争展覧会を開いて盛況、明治38年(1905年)には若手作家を糾合して大同画会を発足させ、国画玉成会 ……

推定関連画像

尾竹竹坡が亡くなってから、88年と55日が経過しました。(32197日)