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橋本雅邦(はしもとがほう)

日本画家[日本]

1908年 1月13日 死去胃がん享年74歳

橋本雅邦 - ウィキペディアより引用

橋本 雅邦(はしもと がほう、男性、天保6年7月27日〈1835年8月21日〉 - 明治41年〈1908年〉1月13日)は、明治期の日本画家。
本名は長郷。
幼名は千太郎。
号は勝園。
別号に、十雁斎、克己斎、酔月画生など。
生涯= 雅邦の父の橋本養邦(はしもとおさくに)は武蔵国(埼玉県)川越藩の御用絵師であり、狩野派(江戸狩野)の一派・木挽町狩野家の当主狩野養信(晴川院)の高弟として同家の邸内に一家を構えていた。
このため雅邦は天保6年にこの木挽町狩野家の邸内に生まれている。
慣習に従い5歳の頃から実父より狩野派のてほどきを受け、12歳の時正式に父と同じく養信に入門する。
ただし養信はこの一月後に没したため、実際にはその後継者である狩野雅信(勝川院)を師としたと見てよい。
この一年前に狩野芳崖も入門しており、7歳年下で穏和な人柄の雅邦と、激情家の芳崖と性格は正反対であったが、共に現状の狩野派への不満と独創的表現への意欲を共有し、生涯の親友となる。
両者は早くも頭角をあらわし、安政4年(1857年)23歳で塾頭となる。
芳崖、狩野勝玉、木村立嶽と共に勝川院門下の四天王と称され、特に芳崖とは「勝川院の二神足」「勝川院の竜虎」と呼ばれ、塾内の絵合わせでは共に源平の組頭を務めた。
安政7年(1860年)雅邦の号をもらって絵師として独立を許され、池田播磨守の家臣高田藤左衛門の娘・とめ子と結婚する。
しかし当時既に絵画の需要は少なく、ま ……

橋本雅邦が亡くなってから、116年と286日が経過しました。(42655日)

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