川合玉堂(かわいぎょくどう)
日本画家[日本]
1957年 6月30日 死去享年85歳
川合 玉堂(かわい ぎょくどう、1873年〈明治6年〉11月24日 - 1957年〈昭和32年〉6月30日)は、明治・大正・昭和時代の日本で活動した日本画家。
本名は 川合 芳三郎(かわい よしさぶろう)。
画号は当初「玉舟(ぎょくしゅう)」、間もなく「玉堂」に改め、晩年は終の棲家と同名の「偶庵(ぐあん)」を別号として用いた。
長男の真一は化学者で東京教育大学名誉教授。
来歴・人物=
愛知県葉栗郡外割田村(現在の一宮市木曽川町外割田[* 1])にて、1873年(明治6年)11月24日、筆墨紙商の長男として生まれる。
1881年(明治14年)、一家は岐阜市に移住する。
絵には12歳頃から親しむようになったという。
1886年(明治19年)、京都の画家・青木泉橋が岐阜に来住すると、夫人も翠蘋と号する美人画家で、芳三郎少年は青木夫妻の知遇を得て大いに刺激を受けたという。
1887年(明治20年)・14歳を迎える年の9月、青木泉橋の紹介状を持って京都に上り、四条派・望月玉泉の門に入り、「玉舟」の号を得る。
1890年(明治23年)11月になると円山派・幸野楳嶺の画塾「大成義会」に入る。
同年、『春渓群猿図』『秋渓群鹿図』の連作を第3回内国勧業博覧会に出品して早くも入選を果たすと、これを機に「玉堂」に改号した。
玉堂とその妻・とみ1949年(昭和24年)撮影
1896年(明治29年)・23歳の時に上京して(東京へ移住して)橋本雅邦に師事する。
岡倉覚三(天心)、雅邦、横山大観らの創立した日 ……
川合玉堂が亡くなってから、67年と144日が経過しました。(24616日)