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山元春挙(やまもとしゅんきょ)

日本画家[日本]

1933年 7月12日 死去享年63歳

山元春挙 - ウィキペディアより引用

山元春挙(やまもと しゅんきょ、明治4年(1871年)11月24日 - 昭和8年(1933年)7月12日)は、明治から昭和初期にかけて活動した円山・四条派の日本画家。
本名は金右衛門、幼名は寛之助、別号に円融斎、一徹居士。
円山四条派の画風を身につける一方で写真技術を学んで風景画制作に応用するなど、先進的な描法を模索した画家であり、竹内栖鳳と共に近代京都画壇を代表する画家である。
伝記= 滋賀県膳所町(現在の大津市中庄付近)に生まれる。
父は山元善三郎、母は直子。
幼名は寛之助。
滋賀県五個荘(現在は東近江市の一部)の小杉家の養子となり金右衛門と改名するが、のち山元家に復籍する。
大津打出浜学校を卒業後、大嶋一雄塾で漢学を学ぶ。
明治16年(1883年)頃12,3歳で遠縁にあたる京都の野村文挙に師事し、雅号を春挙とする。
その後文挙が上京したため明治18年(1885年・14歳)に森寛斎に師事する。
翌年、京都青年絵画研究会展に「呉孟」「菊に雀」を出品、一等褒状を受ける。
明治24年(1891年・20歳)竹内栖鳳、菊池芳文らと共に京都青年絵画共進会を再興し審査員となる。
自らも「黄初平叱石図」を出品、二等賞銀印を受ける。
翌明治25年(1892年)春挙21歳の時には最初の入門者、高井梅渓を迎えた。
明治26年(1893年・22歳)には日本美術協会展に「秋山瀑布」を出品し褒状を受ける。
その後国内の展覧会、海外のドイツ、ババリア美術展覧会、パリ万国博覧会 、シカ ……

山元春挙が亡くなってから、91年と132日が経過しました。(33370日)

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