小堀遠州(こぼりえんしゅう)
備中松山藩主、茶人大名[日本]
(正保4年2月6日没)
1647年 3月12日 死去享年69歳
小堀 政一(こぼり まさかず)は、安土桃山時代から江戸時代前期にかけての大名、茶人、建築家、作庭家、書家。
2代備中国代官で備中松山城主、のち近江国小室藩初代藩主。
伏見奉行、上方郡代と江戸幕府成立期の京都伏見にて、畿内近国支配に重要な役目を果たした。
官位は従五位下遠江守。
茶道の遠州流の祖。
一般には小堀遠州(こぼり えんしゅう)の名で知られるが、「遠州」は武家官位の受領名の遠江守に由来する通称で後年の名乗り。
道号に大有宗甫、庵号に孤篷庵がある。
出自=
小堀氏の本姓は藤原氏で、光道の代に近江国坂田郡小堀村(現・滋賀県長浜市)に居住して村名を姓として名乗った。
光道から6代の後の小堀正次は、縁戚であった浅井氏に仕えていたが、天正元年(1573年)の浅井氏滅亡後は羽柴秀吉の弟・秀長の家臣となった。
生涯=
天正7年(1579年)、小堀正次の長男として誕生。
母は磯野員昌娘。
幼名は作助、元服後は、正一、政一と改める。
天正13年(1585年)、豊臣秀長が大和郡山城に移封されると、父・正次は家老となり、政一も共に大和郡山に移った。
この頃、秀長は山上宗二を招いたり、千利休に師事するなどし、大和郡山は京・堺・南都(奈良)と並んで茶の湯の盛んな土地となっていた。
小姓だった政一は、秀吉への給仕を務め、利休や黒田如水、長政父子とも出会い、長い親交を深めていった。
また、父の勧めもあって大徳寺の春屋宗 ……
小堀遠州が亡くなってから、377年と252日が経過しました。(137951日)