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足利義政(あしかがよしまさ)

室町幕府第8代将軍[日本]

(延徳2年1月7日没)

(ユリウス暦) 1490年 1月27日 死去享年55歳

足利義政 - ウィキペディアより引用

足利 義政(あしかが よしまさ、永享8年1月2日〈1436年1月20日〉- 延徳2年1月7日〈1490年1月27日〉)は、室町時代中期から戦国時代初期にかけての室町幕府第8代征夷大将軍(在職:文安6年4月29日(1449年5月21日) - 文明5年12月19日(1474年1月7日))。
第6代将軍・足利義教の五男。
母は日野重子。
第7代将軍・足利義勝の同母弟にあたる。
幼くして兄の跡を継ぎ、成長後は近習や近臣とともに親政に取り組むが、有力守護の圧力に抗することはできなかった。
守護大名の対立はやがて応仁の乱を引き起こすこととなった。
東山文化を築くなど、文化人的側面でも知られる。
息子である義尚に将軍の地位を譲った後も、大御所として政治に関与し続けた。
生涯= 将軍職就任= 永享8年(1436年)1月2日、第6代将軍・足利義教と側室・日野重子の間の庶子として御産所に指定された赤松義雅邸にて生まれた。
義教にとっては五男であり、嫡子・足利義勝の同母弟であった。
幼名は三寅、のちに三春(みはる)と呼ばれている。
嫡子である兄・義勝が政所執事・伊勢貞国の屋敷で育てられたのに対して、義政は母・重子の従弟である烏丸資任の屋敷にて育てられた。
そして、後継者の地位から外された他の兄弟と同じく慣例に従い、出家して然るべき京都の寺院に入寺し、僧侶として一生を終えるはずであった。
嘉吉元年(1441年)6月24日、父が嘉吉の乱で赤松満祐に殺害された後、兄・義勝が第7代将軍として継 ……

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