日野富子(ひのとみこ)
室町幕府将軍・足利義政 正室[日本]
(明応5年5月20日没)
(ユリウス暦) 1496年 6月30日 死去享年57歳
日野 富子(ひの とみこ、藤原富子(ふじわらのとみこ)、永享12年(1440年) - 明応5年5月20日(1496年6月30日))は、室町時代後期から戦国時代前期の女性。
室町幕府の第8代将軍・足利義政の正室(御台所)。
父は蔵人右少弁・日野重政、母は従三位・北小路苗子(北小路禅尼)。
兄弟に勝光(兄)、永俊(第11代将軍・足利義澄の義父)、資治(日野兼興の養子)、妹に良子(足利義視正室)。
第9代将軍・足利義尚の母。
従一位。
名称=
格式名称は氏姓と諱の藤原(朝臣)冨子。
「従一位冨子」の本人署名が後世に伝わる。
当時の呼称は主に将軍正室の意味の「御台」、夫の死後もしばしばそのように呼ばれている。
夫婦喧嘩により別居した時には、居住地を取って「東山殿」と呼ばれるようになった夫に代わって「室町殿」と呼称された記録もある(親元日記)。
1490年の足利義政の死後に大慈院に入寺・出家で尼となった後は妙善院慶山と名乗った。
大正2年(1913年)の日本史概説書では、「藤原富子」と記されている。
しばしば、中世の夫婦別姓(氏、苗字)の例として挙げられるが、実際に本人が「日野富子」を名乗った事実は確認されていない。
日野は実家の名字(苗字)であるため富子が婚姻後に名乗ったり呼称されたりする理由はなく、氏姓(本姓)と名字(苗字)を混同した後世の誤解だという批判がある。
そもそも、富子の高祖父である資康の系統は日野家の分家として ……