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足利義尚(あしかがよしひさ)

室町幕府第9代将軍[日本]

(長享3年3月26日没)

(ユリウス暦) 1489年 4月26日 死去病死享年25歳

足利義尚 - ウィキペディアより引用

足利 義尚(あしかが よしひさ)は、室町幕府の第9代征夷大将軍(在職:文明5年(1473年) - 長享3年 (1489年))。
『尊卑分脈』や『足利家官位記』により、後年、義凞(あるいは義煕)(よしひろ)と改名したことが確認できるが、一般的には義尚の諱で知られる。
応仁の乱では、叔父の足利義視と将軍職をめぐる対立候補として擁立された。
乱後は衰退した幕府権力を回復すべく、六角征伐などの積極的な幕政改革を行なったが、在陣していた近江国の陣中にて病死した。
生涯= 伝足利義尚像(天龍寺蔵、肖像については後述) 足利義尚木像(等持院) 寛正6年(1465年)11月23日、8代将軍・足利義政と正室・日野富子の次男として生まれる。
義尚が誕生する4か月前の7月には側室の茶阿局が男子(等賢同山)を出産しているが、庶子である彼を後継者にするつもりがなかった義政は翌年4月には出家させるために天龍寺香厳院へ送っている。
つまり、初めから義尚が将来の将軍家の後継者となることが前提となっていたと考えられている。
長らく実子のなかった義政は弟の義視を養子にしていたが、義尚が誕生すると将軍後継問題が発生した。
義政は義視を中継ぎとして就任させてから、その上で義尚を将軍にするつもりであったが、義尚の養育係であった政所執事・伊勢貞親は義視の将軍就任に反対であった。
文正元年(1466年)9月、貞親は義視に謀反の疑いありと義政に讒言し、義視の排除を図っ ……

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