三条西実隆(さんじょうにしさねたか)
公卿[日本]
(天文6年10月3日薨去)
(ユリウス暦) 1537年 11月5日 死去享年83歳
三条西 実隆(さんじょうにし さねたか)は、室町時代後期から戦国時代にかけての公卿。
内大臣・三条西公保の次男。
官位は正二位・内大臣。
能書家でもあった。
経歴=
京都武者小路の邸で誕生した。
当初の名は公世。
長禄2年(1458年)、兄・実連が死去し、家督相続者として扱われ従五位下に叙され、このとき公延と改名する。
2日後に侍従に任官。
寛正元年(1460年)、父・公保が死去する。
このため、母方の叔父である甘露寺親長の後見を受けて家督を相続する。
応仁元年(1467年)、京都で応仁の乱が発生し、鞍馬寺へ疎開。
乱により三条西邸も焼失している。
文明元年(1469年)、元服と同時に右近衛権少将に進み、実隆と改名する。
永正3年(1506年)、内大臣となるが在職わずか2か月、任大臣大饗も開かずに致仕。
永正13年(1516年)に出家。
人物=
後土御門天皇・後柏原天皇・後奈良天皇の3代に仕えたが、後土御門の寵妃や、後柏原の女御で後奈良の生母の勧修寺藤子は義姉妹に当たり、天皇家とは深い縁戚関係にあった。
室町幕府将軍の足利義政や足利義澄、若狭国守護・武田元信等と親交があったほか、文化人としての交流関係も多岐に亘り、一条兼良と共に和歌・古典の貴族文化を保持・発展させ、宗祇から古今伝授を受けている。
古筆の鑑定も能くし、宗祇から小倉懐紙の鑑定を依頼されたことが『実隆公記』にみえる。
また、連歌師の山崎宗鑑とも親しく ……