一条兼良(いちじょうかねよし)
公卿、古典学者[日本]
(文明13年4月2日没)
(ユリウス暦) 1481年 4月30日 死去享年80歳
一条 兼良(いちじょう かねよし/かねら)は、室町時代から戦国時代初期にかけての公卿・古典学者。
関白左大臣・一条経嗣の六男。
官位は従一位・摂政、関白、太政大臣、准三宮。
一条家8代当主。
桃華叟、三関老人、後成恩寺などと称した。
経歴=
応永19年(1412年)、病弱であった兄の権大納言・経輔が隠居した後を受け、元服して家督を継ぐ。
応永20年(1413年)、従三位に叙せられて、公卿に列した。
応永25年(1418年)、父の経嗣が没したため、九条流の家長と関白の地位は九条満教に移ったが、家長の職権の1つであった東福寺などの九条流ゆかりの寺院の管理権は権大納言である兼良が継承した(本来は九条家と一条家のうち上位者が継ぐ原則であった)。
これは、九条家の家臣が東福寺の領内で殺害された事件を巡って九条家と東福寺が不仲で寺側が九条家の管理に抵抗したため、将軍足利義持がやむなく寺院の管理権は兼良が継ぐように御教書を出したためである。
その後、累進して正長2年(1429年)に左大臣に任ぜられるが、実権は従兄弟の二条持基に握られていた。
永享4年(1432年)、兼良は摂政となったが、月余で辞退に追い込まれ、同時に左大臣も辞職を余儀なくされる。
その背景には同年に実施された後花園天皇の元服を巡る兼良と二条持基の対立があった。
かつて後小松天皇の元服の際に、摂政の二条良基が加冠役・将軍の足利義満(左大臣)が理髪役を務めた。
後 ……