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藤原頼長(ふじわらのよりなが)

公卿[日本]

(保元元年7月14日没)

(ユリウス暦) 1156年 8月1日 死去享年37歳

藤原頼長 - ウィキペディアより引用

藤原 頼長(ふじわら の よりなが)は、平安時代末期の公卿。
藤原北家、摂政関白太政大臣藤原忠実の三男。
官位は従一位・左大臣、贈正一位、太政大臣。
通称は宇治左大臣。
兄で関白・忠通と対立し、父・忠実の後押しにより藤原氏長者・内覧として旧儀復興・綱紀粛正に取り組んだが、その苛烈で妥協を知らない性格により悪左府(あくさふ)の異名を取った。
後に鳥羽法皇の信頼を失って失脚。
政敵の美福門院・忠通・信西らに追い詰められ、保元の乱で敗死した。
男色始め当時の風俗を克明に記した日記『台記』でも有名。
生涯= 摂関家の才子= 幼名は菖蒲若(あやわか)。
大治5年(1130年)、藤原敦光が持参した複数の名字の中から中御門宗忠が「御堂(道長)宇治殿(頼通)御名字なり」という理由で選び、「頼長」と命名された(『中右記』正月3日条)。
元服して正五位下に叙せられ侍従・近衛少将・伊予権守に任官。
同年、右近衛権中将。
天承元年(1131年)に従三位。
翌年参議を経ずに権中納言に昇進。
長承2年(1133年)には8歳年上の徳大寺実能の娘・幸子を娶った。
長承3年(1134年)、権大納言となる。
また、姉の泰子(高陽院)が鳥羽上皇の皇后に冊立されると皇后宮大夫を兼ねる。
保延2年(1136年)には内大臣、右近衛大将を兼ねる。
保延5年(1139年)、東宮傅となり左近衛大将を兼任する。
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