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藤原兼長(ふじわらのかねなが)

公卿[日本]

(保延4年生、保元3年1月1日没)

(ユリウス暦) 1158年 2月1日 死去享年21歳

藤原 兼長(ふじわら の かねなが)は、平安時代末期の公卿。
藤原北家御堂流、左大臣・藤原頼長の次男。
官位は正二位・権中納言、右近衛大将。
経歴[編集] 幼名を父・頼長と同じく菖蒲若と称す。
天養二年(1145年)、父・頼長より「忠経」の名を与えられるが、祖父・忠実の強硬な反対により翌日兼長と改められた。
この理由として忠実は、朝敵として討滅された平忠常と同訓であるとの不吉を説いている。
当時、父・頼長は、その兄忠通から摂関家の家督を将来的に相続すべき立場にあった。
その流れの中で頼長の嫡男たる兼長の官途も順調であり、久安4年(1148年)には11歳にして五位中将に進んでいる。
また伯父である忠通の猶子ともなり、同年忠通の近衛邸で元服を果たしている。
しかし、康治2年(1143年)に実子・基実を得ていた忠通は、内心では頼長流への家督移譲に対して消極的であり、やがて忠実・頼長と対立してゆく。
したがってこれ以降の兼長の昇進は忠通の関与するところではなく、むしろ忠通に代わって久安6年(1150年)に藤氏長者となって実権を握った頼長の威光によるものであった。
仁平3年(1153年)には正二位権中納言に達し、翌仁平4年(1154年)には右近衛大将を兼任。
この年、春日祭上卿を勤め、多くの殿上人や源為義らの武士を含む大行列を従え、盛大に京を出立している。
頼長と忠通の対立は、皇室内部の角逐とも相まって極点に達し、遂に保元元年 ……

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