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藤原兼長(ふじわらのかねなが)

公卿[日本]

(保延4年生、保元3年1月1日没)

(ユリウス暦) 1158年 2月1日 死去享年21歳

藤原 兼長(ふじわら の かねなが)は、平安時代末期の公卿。
藤原北家御堂流、左大臣・藤原頼長の次男。
官位は正二位・権中納言、右近衛大将。
経歴= 幼名を父・頼長と同じく菖蒲若と称す。
天養2年(1145年)、彼は頼長が「忠経」と名付けたところ、この名は藤原忠通には認められたが、藤原忠実から強い反対を受けた。
忠実は頼長に改名を要求し、頼長は不可解に思い使者を遣わして「『忠経』という名に何か忌み嫌う点があるのか?」と問わせた。
忠実は「謀反人名也」と答え、「忠経」が朝敵・平忠常の名「忠常」と同音(この二つの名前はどちらもタダツネと読みます)であることを不吉とした。
さらに忠実は「摂政長風月、吾子通経史、而不知我朝反者名、所謂如目見毫毛而不見其睫也、可謂鳴呼」と、摂政(忠通)が風流を愛し、我が子(頼長)が学問に通じながらも朝敵の名前を知らなかったことを批判した。
翌日、頼長は「兼長」「基実」「良通」の三つの名前のどれがより吉であるかを尋ねるため、清原信俊(清原定俊の子、時は明経博士)、中原師安(中原師遠の子、時は大外記)、三条実行(藤原公実の子、時は権大納言)の三人に意見を求めた。
三人は皆「兼長吉也」と言った。
その後、頼長は再度使者を送って忠実の意見を確認したところ、忠実も「兼長吉也」と認めた。
そこで「忠経」を「兼長」に改名した。
興味深いことに、落選した他の二つの名前は忠通の ……