後宇多天皇(ごうだてんのう)
第91代天皇[日本]
(元亨4年6月25日崩御)
(ユリウス暦) 1324年 7月16日 死去享年58歳
後宇多天皇(ごうだてんのう、1267年12月17日〈文永4年12月1日〉- 1324年7月16日〈元亨4年6月25日〉)は、日本の第91代天皇(在位:1274年3月6日〈文永11年1月26日〉- 1287年11月27日〈弘安10年10月21日〉)。
諱は世仁(よひと)。
第一次院政期に訴訟制度改革に取り組み、対立する持明院統の花園天皇からも「末代の英主」と称えられた。
しかし、晩年は真言宗の修行への傾倒が過剰で政治を疎かにしたとも言われ、花園は「晩節を汚した」と批判している。
書道では宸翰様の名手としても知られ、『後宇多天皇宸翰御手印遺告』(大覚寺蔵)など数点の書作品が国宝に指定されている。
また、和歌にも優れ、二条派の有力歌人の一人であった。
第一次院政期の勅撰和歌集は『新後撰和歌集』(嘉元元年(1303年)奏覧、撰者は二条為世)、第二次院政期は『続千載和歌集』(元応2年(1320年)奏覧、撰者は同じく二条為世)。
略歴=
『後宇多天皇宸翰御手印遺告』(国宝、大覚寺蔵)の巻頭部分
文永4年(1267年)、亀山天皇の第二皇子として誕生する。
母は左大臣洞院実雄の娘、皇后佶子(京極院)。
祖父・後嵯峨上皇の意志により、文永5年(1268年)生後8か月で立太子。
文永11年(1274年)1月に亀山天皇から譲位を受けて8歳で践祚。
亀山上皇による院政が行われた。
治世中には、元・高麗軍による文永・弘安の両役、いわゆる元寇が発生した。
建治元年(1275年)、亀山上皇の血統(大覚寺統)に天皇が ……