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伏見天皇(ふしみてんのう)

第92代天皇[日本]

(文保元年9月3日崩御)

(ユリウス暦) 1317年 10月8日 死去

伏見天皇 - ウィキペディアより引用

伏見天皇(ふしみてんのう、1265年5月10日〈文永2年4月23日〉- 1317年10月8日〈文保元年9月3日〉)は、日本の第92代天皇(在位:1287年11月27日〈弘安10年10月21日〉- 1298年8月30日〈永仁6年7月22日〉)。
諱は熙仁(ひろひと)。
後深草天皇の第二皇子。
母は、左大臣洞院実雄の娘、愔子(玄輝門院)。
持明院統の天皇で、在位中には大規模な訴訟制度改革を実行。
皇太子時代より新しい歌風を模索し、京極為兼とともに京極派を成立させ、『玉葉和歌集』の勅撰を行った。
書道にも優れ、「書聖」とも称される。
概要[編集] 熙仁の誕生当初、叔父の亀山天皇の子孫への皇位継承が決まりかけていたが、父後深草上皇が出家の意向を表明すると、それに同情した幕府の措置によって、熙仁は皇太子となった。
(→#皇太子となる) その後、霜月騒動の余波を受けて践祚。
在位中は、宮廷内で威勢をふるっていた後深草の近臣集団や訴訟に介入してくる平頼綱の側近を排除したり、庭中の新設に代表される、訴訟制度の大規模な改革を行うなどした。
こうした鎌倉時代後期の訴訟制度改革によって、承久の乱以降破綻していた治天の君の権力が回復することになったという評価も存在する。
(→#践祚・#伏見親政) しかし、春宮時代から伏見に仕えていた京極為兼が幕府に処罰され、皇子の胤仁親王(後伏見天皇)への譲位を余儀なくされた。
伏見の最側近である為兼が幕府に問題視されたことは、大覚寺統を ……

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