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久明親王(ひさあきしんのう)

皇族、鎌倉幕府第8代将軍[日本]

(嘉暦3年10月14日没)

(ユリウス暦) 1328年 11月16日 死去

久明親王 - ウィキペディアより引用

久明親王(ひさあきしんのう/ひさあきらしんのう)は、鎌倉幕府第8代征夷大将軍。
生涯= 第89代後深草天皇の第六皇子。
正応2年(1289年)9月、従兄の前将軍・惟康親王が京に送還されたことに伴い、征夷大将軍に就任した。
惟康の将軍解任と京送還の理由は不明だが、当時の天皇家は2年前の弘安10年(1287年)に久明の兄にあたる伏見天皇が即位して後深草院政が成立、さらに正応2年(1289年)4月には甥の胤仁親王(後の後伏見天皇)の立太子と持明院統優位の状態の中、更に勢力を盤石化させる過程で持明院統からの将軍就任を望んだ結果という天皇家の事情が影響しているとする説がある。
また幕府側の事情によるもので、弘安8年(1285年)の霜月騒動で安達泰盛を滅ぼした平頼綱が、泰盛の弘安徳政と連動して京で朝廷内改革・徳政を行うなど親密だった大覚寺統の亀山上皇を危険視したことが一連の事件の原因で、惟康も妹の掄子女王と瑞子女王が後宇多天皇の後宮に入っていたことから大覚寺統に近い立場と見なされたとする説もある。
久明はそれまで、母親の身分が低かったために親王宣下を受けられなかったが、将軍就任が決定したことで同年の10月1日に親王宣下、6日に元服、9日に将軍宣下が行われ、10日には鎌倉に向かって出発している。
鎌倉より久明親王を迎える役目を担ったのは頼綱の次男飯沼資宗であった。
その役目が理由であるか不明ながら上洛と前後して資宗は御内人としては異例 ……

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