三浦道寸(みうらどうすん)
武将[日本]
(諱・義同、永正13年7月11日没)
(ユリウス暦) 1516年 8月19日 死去討死

三浦 義同(みうら よしあつ)は、戦国時代初期の武将。
東相模の大名。
一般的には出家後の「三浦道寸」の名で呼ばれることが多い。
相模三浦氏の事実上の最後の当主である。
生涯=
出自=
義同の生年は不明確であるが、宝徳3年(1451年)ないしは享徳2年(1453年)といわれている。
父・三浦高救(道含)は扇谷上杉氏当主・持朝の子として生まれ、相模三浦氏に養子として入った人物であった。
高救は寛正3年(1462 年)に三浦氏の家督を継ぎ、実家・扇谷上杉氏の一門的存在として活躍。
中でも、扇谷上杉氏家宰・太田道灌とは密接な関係を築いたようである。
『鎌倉大草紙』によれば、道灌が長尾景春の乱の鎮圧を行っている間に義同が江戸城の守備についていたとされるが、これは高救の誤記であるとされる。
また、『太田道灌状』にも「三浦介」が長尾景春の乱に際して扇谷上杉氏方勢力として相模国で数度にわたり合戦を行ったことが記されている。
山内上杉氏に従う=
文明18年、太田道灌は糟屋館において主君・上杉定正によって暗殺される。
これを受けて道灌の実子・資康や、道灌に近しかった武将らは山内上杉氏のもとへ奔る。
高救も、兄・定正のもとを離れ山内上杉氏に従った。
翌長享元年(1487年)、扇谷上杉氏と山内上杉氏は抗争状態に入る(長享の乱)。
年代の明確な義同の初出は、長享の乱の初期、詩僧・万里集九の詩文集『梅花無尽蔵』長享2年(1488年)条であ ……