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上杉朝興(うえすぎともおき)

戦国武将、扇谷上杉家当主[日本]

(天文6年4月27日没)

(ユリウス暦) 1537年 6月4日 死去享年50歳

上杉 朝興(うえすぎ ともおき)は、戦国時代の武将・大名。
扇谷上杉家当主。
略歴[編集] 長享2年(1488年)、上杉朝寧の子として誕生。
叔父・上杉朝良の養子となる。
永正2年(1505年)、山内上杉家との抗争に敗れた養父・朝良は隠居を余儀なくされたため、朝興が家督を継いで扇谷上杉家の当主となるが、実権は依然として朝良が握っていた。
永正15年(1518年)に朝良が死去し、実権を掌握するが、朝良には晩年になって実子・藤王丸が生まれており、朝良は死に臨んで藤王丸が成長した際に家督を譲るように遺言し、朝興は藤王丸の後見人(名代)のような立場になったとされている。
当初は、小弓公方足利義明や相模国の新興大名である北条氏綱と結んで山内上杉家と対峙していたが、大永3年(1523年)頃から氏綱と距離をおいて、山内上杉家との和議に動き始める。
大永4年(1524年)1月、朝興は突如、山内上杉家の上杉憲房との和睦を結ぶ、しかし時同じくして太田資高が北条氏綱に内応したため、北条軍に江戸城を攻撃される。
朝興は「居ながら敵を請けなば、武略なきに似たり」と述べて高輪原で迎撃するが、敗退し江戸城を奪われて河越城に逃亡した。
同年2月には資高の一族の太田資頼も氏綱に内応して岩付城を奪うが、7月には朝興に帰参したためそのまま岩付城に置かれている。
大永5年(1525年)2月には北条氏綱の反撃を受けて岩付城を攻め落とされ資頼は石戸城に一時退いた。

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