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上杉定正(うえすぎさだまさ)

武将、扇谷上杉家当主[日本]

(明応3年10月5日没)

(ユリウス暦) 1494年 11月2日 死去

上杉 定正(うえすぎ さだまさ)は、室町時代から戦国時代にかけての武将・守護大名。
相模国守護。
扇谷上杉家当主。
一般には『南総里見八犬伝』の影響で扇谷 定正(おおぎがやつ さだまさ)の名前で知られている。
出自= 扇谷上杉家は関東管領上杉氏の一族で、相模守護を務め関東管領を継承する山内上杉家の分家的存在であった。
扇谷家は4代鎌倉公方・足利持氏と山内家が対立して持氏が滅ぼされた永享の乱で山内家に味方し、享徳3年(1454年)以来の持氏の子の古河公方・足利成氏との長期の戦いである享徳の乱でも山内家を支える。
扇谷家家宰の太田道真・道灌父子は、河越城、江戸城を築城するなどして、扇谷家の勢力は大いに拡大した。
山内家と扇谷家は両上杉家と呼ばれるようになっていた。
生涯= 上杉持朝の三男として誕生。
文明5年(1473年)、扇谷家当主だった甥・上杉政真が五十子の戦いで古河公方に敗れて戦死した。
若い政真には子がなかったため、太田道灌ら扇谷家老臣達の評定の結果、政真の叔父にあたる定正が家督を継ぐ。
定正は関東管領・上杉顕定と共に五十子陣に在陣して古河公方成氏と対峙した。
しかし、文明8年(1476年)に山内家の有力家臣・長尾景春が反乱を起こし、翌文明9年(1477年)に五十子を急襲、定正と顕定は大敗を喫して上野国へ敗走する(長尾景春の乱)。
上杉方は危機に陥るが、扇谷家家宰・太田道灌の活躍によって豊島氏を初めと ……

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