足利成氏(あしかがしげうじ)
武将、鎌倉公方[日本]
(明応6年9月30日没)
(ユリウス暦) 1497年 10月25日 死去
足利 成氏(あしかが しげうじ)は、室町時代から戦国時代の武将。
第5代鎌倉公方(1449年 - 1455年)、初代古河公方(1455年 - 1497年)。
父は永享の乱で敗死した第4代鎌倉公方足利持氏。
鎌倉公方就任時期は文安4年(1447年)とする説も有力。
父持氏と同様、鎌倉公方の補佐役である関東管領及び室町幕府と対立したが、持氏と異なり、約30年間の享徳の乱を最後まで戦い抜き、関東における戦国時代の幕を開ける役割を担った。
生涯=
幼少期=
幼少期には曖昧な点が多い。
幼名は永寿王丸(永寿丸)とする解説が多いが、万寿王丸とする百瀬今朝雄の説が近年は支持されている。
生年に関しても、永享6年(1434年)あるいは永享10年(1438年)とする解説が混在する。
現在広く用いられている解説を整理すると、主に次の2つになる。
一つ目の説では、嘉吉元年(1441年)の結城合戦にて、安王丸・春王丸の他にも持氏遺児の4歳の童が捕えられたが、京都への連行中に第6代将軍足利義教が暗殺された(嘉吉の乱)ため、処分が実行されず、幸運にも生き延びた(『建内記』)。
この4歳の童を成氏とみなす。
逆算すると生年は永享10年となる。
その後、宝徳元年(1449年)8月に、京都の土岐持益邸にいた持氏の遺児が鎌倉に向け出立(『草根集』)し、鎌倉公方となったとする。
百瀬今朝雄は以上の通説を再検証し、宝徳元年8月に京都から鎌倉に向けて発った人は、成氏ではなく弟の尊敒であるとし ……