北一輝(きたいっき)
社会運動家[日本]
1937年 8月19日 死去処刑享年55歳
北 一輝(きた いっき、1883年〈明治16年〉4月3日 - 1937年〈昭和12年〉8月19日)は、戦前の日本の思想家、社会運動家、国家社会主義者。
本名は北 輝次郎(きた てるじろう)。
二・二六事件の皇道派青年将校の理論的指導者として逮捕され、軍法会議で死刑判決を受けて刑死した。
日蓮宗と労働者の主権、社会主義を結び付けた独特の思想を発表したことで知られる。
生涯=
1883年(明治16年)4月3日、新潟県加茂郡湊町(現:佐渡市両津湊)の裕福な酒造業・北慶太郎と妻リクの長男輝次として生まれる。
父慶太郎は初代両津町長を務めた人物で2歳下の弟は衆議院議員の北昤吉。
ほかに4歳上の姉と、4歳下の弟がいた。
尋常小学校の半ばに右目の眼疾により1年間休学する。
1897年(明治30年)に前年に創設されたばかりの旧制佐渡中学校(新制:佐渡高校)に一期生として入学、翌1898年(明治31年)にとび級試験を受け、3年生に進級する。
1899年(明治32年)に眼病のため帝大病院に入院し、夏頃まで東京に滞在した。
「プテレギーム(翼状片)」と診断され、当時の眼科の権威河本重次郎による手術を受けたがよくならなかった。
1900年(明治33年)に眼病による学業不振のため5年生への進級に失敗し、さらに父の家業が傾いたことも重なり退学した。
1901年(明治34年)には新潟の眼科院に7ヶ月間入院した。
上京し幸徳秋水や堺利彦ら平民社の運動に関心を持ち、社会主義思想に接近した。
帰 ……
北一輝が亡くなってから、87年と94日が経過しました。(31871日)