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守邦親王(もりくにしんのう)

鎌倉幕府第9代将軍[日本]

(正慶2年8月16日没)

(ユリウス暦) 1333年 9月25日 死去

守邦親王 - ウィキペディアより引用

守邦親王(もりくにしんのう)は、鎌倉幕府9代(最後の)征夷大将軍で、鎌倉幕府将軍の中で24年9か月と在職期間が最長であった。
また、親王の身位を持ちながら、生涯京都の地に足を踏み入れることがなかったと考えられている。
8代将軍久明親王の子。
生涯= 8代将軍久明親王と、7代将軍惟康親王の娘中御所の間の子として生れる。
延慶元年(1308年)8月、父に代わってわずか8歳で征夷大将軍に就任した。
同年9月19日には後深草天皇の孫にもかかわらず、三品親王に叙せられている。
当時幕府の実権は北条得宗家とそれを補佐する者たちによって握られ、将軍は名目的存在に過ぎず、そのため守邦親王の事績はほとんど伝わっていない。
数少ない事績の1つとして文保元年(1317年)4月、内裏(冷泉富小路殿)造営の功によって二品に昇叙された。
また、題目宗(法華宗)の是非を問う問答対決の命を、亡き日蓮の六老僧の一人・日朗(武蔵国長興山妙本寺、及び同国長栄山本門寺住職)に下した。
日朗は高齢ゆえに弟子日印を出し、文保2年(1318年)12月20日から翌元応元年(1319年)9月15日にかけ、日印は日本仏教全宗派と法論を戦わせた(鎌倉殿中問答)。
結果、日印は仏教全宗派を論破し、幕府は題目宗の布教を正式に認めた。
元弘2年(1332年)6月には浄土真宗の覚如に対して本願寺留守職を安堵する旨の令旨を発して本願寺を勅願寺として公認した。
現存する公文書に本願寺の院号が確 ……