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惟康親王(これやすしんのう)

鎌倉幕府第7代将軍[日本]

(嘉暦元年10月30日没)

(ユリウス暦) 1326年 11月25日 死去享年63歳

惟康親王 - ウィキペディアより引用

惟康親王(これやすしんのう)は、鎌倉幕府第7代征夷大将軍。
(在任:1266年 - 1289年) 生涯[編集] 第6代将軍宗尊親王の嫡男として相模鎌倉に生まれる。
文永3年(1266年)7月、父が廃されて京都に送還されたことに伴い、3歳で征夷大将軍に就任した。
親王宣下がなされず惟康王と呼ばれていたが、文永7年(1270年)12月に臣籍降下して源姓を賜与され、源惟康と名乗る(後嵯峨源氏)。
今日では一般に「惟康親王」の名で知られ、宮将軍の一人として扱われることが多いが、将軍在職期間の大半を源惟康、すなわち源氏将軍として過ごしていた。
細川重男の説によれば、惟康が源氏将軍であったことは、当時の蒙古襲来(元寇)という未曽有の事態に対する、執権・北条時宗による政策の一環であったという。
時宗はかつての治承・寿永の乱あるいは承久の乱を先例として、7代将軍・惟康を初代将軍・源頼朝になぞらえ、時宗自身は高祖父の義時になぞらえることで、御家人ら武士階級の力を結集して、元に勝利することを祈願したのだという。
弘安2年(1279年) の正二位への昇叙、弘安10年(1287年)の右近衛大将への任官はいずれも頼朝を意識してのものであり、北条氏がその後見として幕政を主導することによって、同氏による得宗専制の正統性を支える論理としても機能していた。
特に源氏賜姓と正二位昇叙はいずれも時宗政権下で行われており、時宗が源氏将軍の復活を強く望んでいたことが窺える ……

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