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源義朝(みなもとのよしとも)

源氏の武将[日本]

(頼朝の父、平治2年1月3日没)

(ユリウス暦) 1160年 2月11日 死去斬殺享年38歳

源義朝 - ウィキペディアより引用

源 義朝(みなもと の よしとも)は、平安時代後期から末期にかけての武将。
河内源氏六代目棟梁。
東国へ下向、在地豪族(多くは坂東平氏)を組織して勢力を伸ばし、再び都へ戻って下野守に任じられる。
東国武士団を率いて保元の乱で戦功を挙げ、左馬頭に任じられて名を挙げるが、3年後の平治の乱で藤原信頼方に与して敗北し、都を落ち延びる道中尾張国で家人に裏切られ謀殺された。
源頼朝・範頼・義経らの父。
生涯= 上総御曹司= 保安4年(1123年)、源為義の長男として生まれる。
母は白河院の近臣である淡路守・藤原忠清の娘。
乳母は摩々局。
かつて都の武者として名を馳せた河内源氏は曾祖父八幡太郎義家の死後、その弟新羅三郎義光を発端とする一族内紛によって都での地位を凋落させていた。
この頃、父の為義も自身の問題行為によって白河院の信頼を失い、官位は低迷して逼迫している状況にあった。
義朝は少年期に都から東国(関東地方)へ下向し、父・為義が伝領していた安房国朝夷郡丸御厨へ移住した。
その後は上総国に移って当地の有力豪族であった上総氏の後見を受け、「上総御曹司」と呼ばれた。
丸氏・安西氏や坂東平氏の一部(三浦氏・上総氏・千葉氏など)からも連携して庇護された。
義朝の東国下向については、従来義朝は為義の嫡子とみなされていたが、近年では為義から廃嫡された結果とする説もある。
川合康の見解によれば、保延5年(1139 ……

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