藤原信頼(ふじわらののぶより)
公卿[日本]
(平治元年12月27日没)
(ユリウス暦) 1160年 2月6日 死去斬首享年27歳
藤原 信頼(ふじわら の のぶより)は、平安時代末期の公卿。
後白河天皇の寵臣として絶大な権力をふるうが、同じく上皇の近臣であった信西と対立。
源義朝と平治の乱を起こし信西を斬首し、朝廷の最大の実力者となるが、二条天皇親政派と組んだ平清盛に敗北。
六条河原で斬首された。
生涯=
鳥羽院の近臣・藤原忠隆の四男(または三男)として生まれる。
天養元年(1144年)叙爵し、久安2年(1146年)従五位上に進む。
久安4年(1148年)に土佐守、久安6年(1150年)に武蔵守と、父の知行国の受領を歴任。
仁平元年(1151年)には正五位下に進み、翌仁平2年(1152年)には右兵衛佐、久寿2年(1155年)には従四位下・武蔵守に任ぜられる。
後白河天皇に近侍するや、周囲から「あさましき程の寵愛あり」といわれるまでの寵臣となる。
保元2年(1157年)、右近衛権中将より蔵人頭・左近衛権中将に任ぜられ従四位上から正四位下、翌・保元3年(1158年)に正四位上・皇后宮権亮を経て従三位より同年2月に正三位・参議になり公卿に列せられる。
同年には権中納言に任ぜられ、検非違使別当・右衛門督を兼ねるに至る。
後白河天皇の譲位後は院別当となる。
また、信頼は武士の力に着目し、異母兄の基成を陸奥守および鎮守府将軍として送り込み、軍事貴族の奥州藤原氏の2代目藤原基衡と姻戚関係(基衡の嫡男・藤原秀衡に基成の娘を嫁がせている)を結んだり、自身の後任として武蔵守に弟・信 ……