藤原得子(ふじわらのなりこ)
鳥羽法王の寵妃[日本]
(近衛天皇の生母、院号・美福門院、永暦元年11月23日没)
(ユリウス暦) 1160年 12月22日 死去享年44歳
藤原 得子(ふじわら の とくし/なりこ、永久5年(1117年)- 永暦元年11月23日(1160年12月22日))は、日本の第74代天皇・鳥羽天皇の皇后。
近衛天皇の生母。
女院。
院号は美福門院(びふくもんいん)。
藤原北家末茂流(藤原魚名の後裔)の生まれ。
父は権中納言・藤原長実(贈左大臣)母は左大臣・源俊房の女、方子。
鳥羽天皇譲位後の寵妃であったが、太上天皇の后として、異例の「皇后(皇后宮)」に立てられた。
生涯=
永久5年(1117年)に生まれ、父の鍾愛を一身に受けて育った。
長実は「ただ人にはえゆるさじ(並みの人には嫁がせる気になれない)」と語り(『今鏡』)、臨終の間際には「最愛の女子一人の事、片時も忘るゝなし」と落涙したという(『長秋記』長承2年8月13日条)。
父である長実は、祖母に当たる藤原親子が白河上皇の乳母であったことから恩恵を蒙り、白河院政期には院の近臣として活躍した人物である。
父の死後は二条万里小路亭で暮らしていたが、長承3年(1134年)に鳥羽上皇の寵愛を受けるようになり、保延元年(1135年)12月4日に叡子内親王を出産する。
保延2年(1136年)4月、従三位に叙された。
保延3年(1137年)、暲子内親王(八条院)を産んだ後、保延5年(1139年)5月18日、待望の皇子・体仁親王(後の近衛天皇)を出産した。
同年8月17日、鳥羽上皇は体仁親王を崇徳天皇の皇太子とする。
体仁親王の立太子とともに得子は女御となり、正妃の璋子( ……