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源雅定(みなもとのまささだ)

公卿、歌人[日本]

(応保2年5月27日没)

(ユリウス暦) 1162年 7月11日 死去

源雅定 - ウィキペディアより引用

源 雅定(みなもと の まささだ)は、平安時代後期の公卿・歌人。
村上源氏、太政大臣・源雅実の次男。
官位は正二位・右大臣。
中院右大臣と号す。
久我家2代。
経歴= 白河院政期中期の長治2年(1105年)元服と同時に叙爵し、侍従次いで右近衛少将に任官する。
長治3年(1106年)従五位上、嘉祥2年(1107年)正五位下、天仁2年(1109年)従四位下次いで従四位上、天永2年(1111年)正四位下、永久3年(1115年)右近衛中将と近衛次将を務めながら昇進を重ねた。
元永2年(1119年)参議に任ぜられ公卿に列すが、引き続き近衛中将を兼帯し、保安2年(1121年)従三位に昇叙されている。
保安3年(1122年)権中納言に昇進するが、しばらく兼官のない状態となった。
大治4年(1129年)権中納言として8年の労により正三位に叙せられた。
同年白河法皇が没し、鳥羽院政期に入ると村上源氏に代わって閑院流が治天の君や天皇の外戚の地位を得たことで、村上源氏は政治の中枢から外れていくことになる。
大治5年(1130年)右衛門督を、翌大治6年(1131年)検非違使別当を兼帯し、同年12月に中納言に昇進する。
その後も、長承3年(1134年)従二位、保延2年(1136年)正二位と昇進を重ね、同年11月に権大納言に任ぜられた。
保延5年(1139年)妻の姪にあたり鳥羽上皇の寵愛を受けていた藤原得子が体仁親王を出産し、体仁が春宮に立てられる。
保延6年(1140年)雅定は左近衛大将を兼ねている。
永治元年 ……