藤原忠通(ふじわらただみち)
公卿、摂政関白太政大臣[日本]
(長寛2年2月19日薨去)
(ユリウス暦) 1164年 3月13日 死去享年68歳
藤原 忠通(ふじわら の ただみち)は、平安時代後期から末期にかけての公卿・歌人。
藤原北家、関白・藤原忠実の次男。
官位は従一位・摂政 関白・太政大臣。
通称は法性寺関白(ほっしょうじ かんぱく)。
小倉百人一首では法性寺入道前関白太政大臣。
生涯=
康和5年(1103年)、大江匡房の名付により「忠通」と称する。
嘉承2年(1107年)、元服し白河法皇の猶子となる。
永久2年(1114年)、白河法皇の意向により法皇の養女・藤原璋子(閑院流・藤原公実の娘)との縁談が持ち上がるが、璋子の素行に噂があったこともあり、父・忠実はこの縁談を固辞し破談となる。
保安2年(1121年)、法皇の勅勘を被り関白を辞任した忠実に代わって藤原氏長者となり、25歳にして鳥羽天皇の関白に就任(保安元年の政変)。
その後も崇徳・近衛・後白河の3代に渡って摂政・関白を務める。
摂関歴37年は高祖父・頼通の50年に次ぐ。
また大治4年(1129年)、正妻腹の娘・聖子を崇徳天皇の後宮に女御として入内させ、翌5年(1130年)、聖子は中宮に冊立された。
崇徳帝と聖子との夫婦仲は良好だったが子供は生まれず、保延6年(1140年)9月2日、女房・兵衛佐局が崇徳帝の第一皇子・重仁親王を産むと、聖子と忠通は不快感を抱いたという。
保元の乱で崇徳上皇と重仁親王を敵視したのもこれが原因と推察される。
一般には父・忠実が弟の頼長を寵愛する余り、摂政・関白の座を弟に譲るように圧力をか ……